毎年1回、嵯峨・嵐山、乙訓方面等を専門の講師とともに探索します。
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さらんネット ぶらり探訪 <NPO法人設立20周年記念事業>
令和6年11月17日(日)
阪急上桂駅10時集合。 28人参加
洛西、紅葉の参道散策
紅葉の参道」と言われる葉室山浄住寺(黄檗宗寺院)《藤岡ご住職から説明を頂く》を中心に、山田道を地蔵院(竹寺)を経て、苔寺辺りまで散策します。<第1部終了、現地解散>。
第2部(事前申込の方)は、昼食後、西芳寺川古墳群を探索します。阪急上桂駅で解散。
◇本堂にて、藤岡住職から「浄住寺」について興味深いお話をいただきました。
●葉室山 浄住寺:平安時代の弘仁元年(810)、嵯峨天皇の勅願寺として第3世天台座主・慈覚大師円仁によって開創されたと伝えられています。南北朝時代以降、度重なる兵火により荒廃しましたが、元禄2年(1689)に黄檗宗の僧である鉄牛禅師を中興開山として再興されて現在に至ります。
境内には本堂(京都市有形文化財)、位牌堂(京都市有形文化財)、開山堂(京都市有形文化財)、寿堂(京都市有形文化財:非公開)など、黄檗宗寺院ならではの中国風の諸堂が階段状、一列に並んでいます。
本堂前で全員の集合写真(上↑)を撮る。
第1部 は、ここで終了。
第2部 は、近くにある臨済宗の竹寺 「地蔵院」を外から観察。さらに北へ少し歩むと苔寺に。右手に見ながら公園まで歩いて、昼食。
昼食後、公園前の橋を越えずんずん歩み、西芳寺川古墳群を探索。
当時この辺りを治めていた秦氏ゆかりの古墳と言われています。
(下↓)西芳寺川古墳群4
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第22回 さらんネット ぶらり探訪
令和5年11月23日(祝) 今回のルートは、
「千代の古道」石碑(歌碑)と古道沿いの遺跡を求めて」
集合場所:大覚寺バス停 集合時間 10時30分 参加者、30名
案内講師:加納敬二氏(嵯峨大念仏狂言保存会理事、さらんネット副理事長)
コース
大覚寺バス停⇒円山、入道塚古墳⇒嵯峨七つ塚古墳(昼食)⇒広沢の池、⇒移築御
堂ケ池古墳⇒さざれ石(国歌君が代のさざれ石)歌碑⇒阿刀神社⇒甲塚古墳で解散
しました。
尚、NPO法人さらんネットは今年設立20周年を迎えるに当たり、当企画も20周
年記念事業の一つとして開催させて頂きました。
京都には歴史に彩られた散歩道が沢山ある中でも人気の高い千代の古道、平安時
代京の都から離宮を営んでいた嵯峨の大覚寺方面へ行く際に嵯峨天皇や貴族たちが
通ったとされる古道です。
平安の雅に想いを馳せ豊かな自然、景観に恵まれた、自然を十分に味わえ、目を
楽しませる道です。
この古道は古墳時代を中心に縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥、奈良、平安
時代を回顧し乍ら歩くと一層歴史が感じられます。縄文時代今から1万6千年前人
は土器を発明し食べ物を煮炊きができるようになります。
弥生時代・紀元前10世紀頃稲作が始まり弥生土器に加え青銅器、鉄器も出現しま
す。古墳時代約350年7世紀頃まで続きます。奈良の石舞台古墳に比肩する太秦に
ある蛇塚古墳巨大な前方後円墳が出現、円墳、方墳(出雲系)古墳の形、大きさ等
による階層性をもった墳墓を古墳時代と言います。
4世紀末頃に秦氏が百済から日本にやって来て帰化し、農業、養蚕、土木技術等
通じて日本各地に拠点を広げます。秦氏の一人秦酒公が雄略天皇に認められ、山背
葛野地域を与えられました、それに感謝して貢物の絹織物をうず高く積上げ献納し
ました。これが太秦の由来です。その後秦氏は嵯峨野に移り住みます。
5世紀に馬、牛が日本に来ました。縄文、弥生時代には日本に馬、牛はいませんでした。秦氏は得意の土木技術を駆使して洪水を防ぐ護岸工事、葛野大堰を築き、井戸を掘り田を灌漑、鉄製農具で開墾進めました。このことから嵯峨野は京都市内で最も古墳が密集する地域で、大小合わせ200基の古墳があると言われています。
飛鳥、奈良、平安時代は天皇を中心とした国作りが進み律令国家が成立し平城
京、長岡京、平安京の都が作られた、6世紀半に百済から仏教が伝来します。建
築、絵画、仏具、彫刻、仏像、等が作られ仏教に帰依するようになり、急速に古墳
が衰えて行きます。
広沢の池について、8世紀ころ洛西地域一帯を秦氏が開墾した時農業用水とする
ためその原型が作られたと伝えられています。現在の池は宇多天皇の孫にあたる寛
朝僧正が遍照寺を建立した際に築堤、築造以来1000年以上にわたり地域の重要な
水源として農業を支えています。平安時代観月の名所として貴族が訪れ多くの歌を
詠み、芭蕉も、(名月や池をめぐりて夜もすがら)の句を残しています。現在では
毎年12月に池の水を抜き鯉上げが有名です。
コース途中、佛教大学宗教文化ミュージアムでは、嵯峨大念仏狂言紹介、嵯峨嵐
山の歴史展示を見て、岡田茂吉記念館では館内からの広沢の池の絶景、館内の紅葉
に満喫、加納講師の説明に参加者の皆さんは熱心にメモを取られ、古墳内に入るの
は初体験の方も多く、重機やクレーンのない時代何処から巨石が、如何にして運ばれ、組み立てられたか等多くの質問も有りました。
好天にも恵まれて、参加者の皆さんには大変喜んで頂きました。
レポーター:中村吉男(運営委員)
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第21回 さらんネット ぶらり探訪
晩秋の奥嵯峨 愛宕道を歩く
●令和4年11月26日開催、参加者28名、案内講師、加納敬二氏(嵯峨大念仏保存会、さらんネット副理事長)
●コースは、JR嵯峨嵐山駅⇒嵯峨小学校⇒清凉寺⇒慈眼堂⇒厭離庵⇒後亀山天皇嵯峨小倉陵⇒嵯峨鳥居本⇒町並み保存館
●最初の探訪先は嵯峨小学校、天皇の発輦、東京奠都、鉄道開業等で京都はみるみる衰退、そこで行政、寺、町衆が一丸になって人材育成に努めた、ここ嵯峨小学校は天龍寺塔頭招慶院がそっくり提供され嵯峨小学校を創立、今年150周年を迎えた。他にも京都では多数の小学校が(64校)150周年を迎える。
●次に清凉寺を拝観、京都三大念仏狂言(嵯峨釈迦堂、壬生寺、閻魔堂)京都三大火祭り(嵯峨釈迦堂のお松明、五山の送り火、鞍馬の火祭)があり、千本釈迦堂と共に釈迦信仰の中心、釈迦堂は嵯峨天皇の皇子源融(光源氏のモデル)の山荘棲霞観であったが、没後棲霞寺と称し新堂を立て釈迦如来像を安置したことに由来する。今回は特別に、狂言堂の中に入り、貴重な面や道具などの説明を受け、実際の舞台まで踏むことができた。
その後東大寺の僧、奝然が宗から木彫仏釈迦如来像(胎内から五臓等)を持ち帰り。愛宕山(924m)を中国の山西省五台山(3058m)になぞらえ、比叡山(824m)は中国の浙江省天台山(1138m)になぞらえている。
日本の天台山たる比叡山延暦寺に対し日本の五台山 大清凉寺を企て比叡山を凌駕する思いを感じる。志半ばで示寂、弟子の盛算が遺志を継いだ。遺跡に聖徳太子殿聖徳太子と言えば憲法十七条、広隆寺、遣隋使派遣、小野妹子を連想する、小野妹子の6代後の子孫が小野篁、家系に道風、美人の小町がいる。
生の六道、公家篁は夜毎 冥土に出掛け地獄で閻魔大王の裁判の補佐をして朝にこの世に戻るという話が伝えられている。秀頼公首塚、秀頼、父は豊臣秀吉、母は淀君(茶々)徳川秀忠の娘千姫と婚姻大名。徳川政権下で豊臣の財の僅少化の為に無理難題多くの寺社の再建を要請、中でも方広寺の国家安康君臣豊楽の鐘銘で大事件に家康の言いがかりで大坂冬の陣、夏の陣が勃発落城茶々と共に自刃した。
秀頼公が再興につくした由縁をもつ清凉寺に首塚が造られた。奝然、法然、嵯峨天皇、皇后の墓もあり、
各時代の遺跡があり清凉寺は悠久の歴史を育んだ偉大な寺である。
●この後、藤原定家が小倉百人一首を編さんしたという小倉山荘跡厭離庵(えんりあん)を特別拝観、燃えるような鮮やかな紅葉厭離庵の錦秋に堪能。
●その後、念持仏であったと伝わる千手観音立像を祀る慈眼堂を拝観
●室町時代後亀山天皇の祖父が後醍醐天皇。足利尊氏対立、三代将軍足利義満の和睦を受け入れ南北朝分裂時代終わらせた後亀山天皇嵯峨小倉陵
●探訪最後には鳥居本町並み資料館でジオラマ模型を見学、館員の詳しい説明を聞く。
●今回の探訪は日本史の縮図のようでした。また、いつもながら、加納講師の笑顔、ユーモアたっぷり、機知富んだ説明に参加者満足、今日の探訪如何でしたかの問いに全員面白かった、楽しかった、次回は何時と聞かれ大変好評でした。
記:中村吉男(運営委員)
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第20回 さらんネット ぶらり探訪
山城国の国府、乙訓・向日市を歩く
日 時、令和3年11月6日 13時30分、
集合場所、阪急洛西口 参加者 29名
案内講師 加納敬二(京都考古資料館職員、さらんネット副理事長)
●今回の探訪は3世紀~7世紀の古墳時代から奈良、長岡京、平安時代、戦国時代、江戸時代の山城の国葛野郡から分かれ、はじめ弟国と称して後乙訓に、現在乙訓は向日市、長岡京市、大山崎町の二市一町からなっています。
●向日市は784年長岡京の都として、日本の政治が営まれた古い歴史を持った地であったと加納氏より全体説明があり13時50分頃出発しました。
●コースは 物集女城址⇒淳和天皇火葬塚⇒物集女車塚古墳⇒須田家住宅⇒長岡京跡⇒朝堂院第四堂跡⇒阪急西向日駅です。(物集女城址は遠望)
●桓武天皇第三皇子淳和天皇の遺言に従って山陵は築かれず火葬され遺骨は大原野小塩山、山頂付近に散骨されたと言われています。
淳和天皇の棺を運ぶ車を埋めたと言い伝えから、地元では車塚と呼ばれている物集女車塚古墳、全長46m.もある前方後円墳、副葬品が多数、埋葬された人物は乙訓地方の絶大な権力者であったことがうかがわれます。<その前で集合写真をとる>
●江戸期古道、西国街道、愛宕道、丹波道の交差点に須田家住宅が明治30年代まで松葉屋の屋号で醤油製造販売を営んでいた。古い商家が今なおひっそりと息づいている様に思われた。
●探訪最終長岡京跡、朝堂院、長岡京の解明に生涯を捧げた中山修一先生によって飛躍的に発展大極殿、朝堂院、内裏等主な遺構を次々発見された。桓武天皇は784年奈良の都平城京を廃し長岡京に都を移しました794年までの10年間日本の首都として政治、経済、文化の中心であったが、藤原種継が暗殺、早良親王の怨霊が祟りに大洪水、流行病、天皇生母高野新笠、皇后乙牟漏の死去と次々と不幸が重なりなり平安京遷都を余儀なくされたと朝堂院公園案内所の方の説明を受け資料もいただき参加者ご満足、次回の探訪は何時かと聞かれ好評でした。
記・中村吉男(さらんネット運営委員)
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〝双ケ岡からきぬかけの路を歩く〟
第19回さらんネット「ぶらり探訪」企画 開催
令和2年 12月5日(土)、さらんネット恒例の「ぶらり探訪」シリーズ第19回「双ヶ岡からきぬかけの路を歩く」が開催された (写真上) 。参加者は30名。コースはJR花園駅⇒双ヶ岡⇒仁和寺⇒蓮華寺⇒傳法輪寺⇒住吉大伴神社⇒龍安寺裏朱山七陵⇒等持院⇒六請神社⇒櫻谷文庫⇒嵐電北野白梅町(解散)。案内の講師は加納敬二氏(京都市考古資料館職員、さらんネット副理事長)が務めた。
午前9時、集合場所のJR花園駅を出発し、双ケ岡(ならびがおか)こもれびの広場で加納氏よりコースの探訪箇所の説明があった。今回はコロナ禍での開催となり、充分な感染拡大防止策(密を避ける、検温、手の消毒など)に最大限の注意を払った。
この日は素晴らしい天候に恵まれ、双ケ岡から眺める光景に思わず歓声が上がった。眼下には仁和寺の全景。背後にのどかな嵯峨野の風景が眺められた。この一帯はその昔、御所周辺に居住した貴族たちの山荘が点在した。徒然草を著した吉田兼好が晩年過ごした地でもある。
世界遺産・最高位門跡寺院仁和寺の御室桜(お多福桜)は有名だ。五重の塔が美しい。余談だがここ御室は大手電機機器メーカーのオムロン由来の地でもある。お隣は五智如来像が鎮座している蓮華寺。ここは空海が胡瓜に疫病を封じて五智不動に祈願すると罹病しないと説いた〝胡瓜封じ〟で有名である。
傳法輪寺ではコロナ禍の影響で残念ながら御室大仏が拝観できなかった。住吉大伴神社は、豪族大伴氏が平安遷都に伴って奈良から移した氏神である。
続いて竜安寺北側にある七つの陵墓の総称である朱山七陵へ。京都の街が眼下いっぱいに広がる眺望の素晴らしい地だった。ここで昼食を取った。
休憩の後は等持院を訪ねた。足利将軍代々の菩提所である。また映画の神様と言われた牧野省三の銅像もある。そして六請神社。ここには天照大神にはじまり石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六大神がそろって祀られている。
最後の訪問先は櫻谷文庫。中には入れずここでこの日の行程は終了した。参加者の皆様は探訪先で熱心にメモを取られ、加納講師にも多数の質問が寄せられ、大好評の裏に散会となった。(運営委員・中村吉男)
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第18回さらんネットぶらり探訪Report
「三条通界隈 秦氏の足跡を追う」盛況裏に
令和元年10月26日、ぶらり探訪「三条通界隈、秦氏の足跡を追う」に40名が参加されました。(晴れ、10時右京区役所前出発~16時松尾大社着)
コースは蚕の社(木嶋神社)、大酒神社、広隆寺、大映通り商店街、蛇塚古墳、天塚古墳、梅宮大社、松尾大社であった。作家司馬遼太郎が『街道を行く』で、"この地を歩いて古代の秦氏を考えないのは、ローマの遺跡を歩いてローマ人を考えないのと同じ位鈍感"の一説を思い浮かんだ探訪であった。
●蚕ノ社元糺の池
初めに蚕の社元糺の池で(今は涸れている)、案内講師のさらんネット加納敬二副理事長からコース全体の解説があった。
まず、秦氏は大陸から様々な技術をもたらしたひとつに養蚕がある。蚕の社は蚕の神を祀っている。元糺は古く、下鴨神社の糺はここより移したとも言われる。三柱鳥居(京都三大珍鳥居)の方角が稲荷山、松尾山、双ヶ丘に方位が一致すること。
●大酒神社
次に、大酒神社の酒はお酒ではなく災厄を避けること(大避)を意味する。元は広隆寺の境内にあったが明治の神仏分離令後、現在の位置になった。広隆寺は、聖徳太子より秦氏が一体の仏像を賜り本尊として建立、国宝第一号の弥勒菩薩はあまりにも有名、牛祭り(京都三大奇祭)今は中止等。
●大映通り商店街
次に、大映通り商店街は、かつてこの界隈には大映をはじめ映画の撮影所が立ち並び、日本のハリウッドといわれたこともあった。この商店街のスーパー前に6メートルの大魔神が建っている。
●蛇塚古墳
そして、今回の探訪のメインは史跡蛇塚古墳、史跡天塚古墳である。蛇塚古墳は6世紀末~7世紀初の京都府下最大の前方後円墳で飛鳥の石舞台古墳よりも大きい。封土が失われ、石室が露出、石室内に入り巨石に圧倒される、重機のない時代に巨石が清滝から修羅でなく運河で運ばれたこと、高度な土木技術に驚嘆である。この秦氏の高度の技術が西陣織や角倉了以の堰、高瀬川等が出来、琵琶湖疏水が出来、ダム等いろいろな分野が連綿と継承し今日に至っているといっても過言ではない。
●梅宮大社
次に、梅宮大社(秦氏とは無関係)は橘の氏神、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子がここで祈願して仁明天皇を授かったことから子宝、安産の神様とされている。
最後は、松尾大社は酒の神様としても有名。松尾大社は秦氏の氏神、松尾祭は神輿が川を渡る船渡御があり非常にめずらしい、これは秦氏が海を渡ってきたことの郷愁とも受けとめられる。
参加者の皆様が巡回先々で熱心にメモをとり活発な質問をされ、楽しい有意義な探訪でした。また参加者から来年はいつ開催ですか、来年も是非参加したいと嬉しい言葉を頂きました。終わりに大前理事長より参加者の皆様に謝辞で解散しました。
(2019年11月3日更新 運営委員:中村吉男)
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●平成29年11月23日
晩秋の嵯峨野、広沢池周辺古墳群を行く
ぶらり探訪2017 圧巻の巨石群に歓声
11月23日、ぶらり探訪企画「晩秋の嵯峨野、広沢の池周辺の古墳を訪ねて」が41名の参加を頂き開催されました。
今回のコースは移築御堂ケ池1号墳=印空寺古墳=平安郷内~山越古墳群=(集合写真。撮影後昼食)=広沢古墳群=佛教大学宗教文化ミュージアム~七ツ塚古墳群=大覚寺古墳群=大覚寺境内~名古曽の滝まで。
午前9時半より大前理事長より、参加者の皆様への謝意と、当NPOの活動趣意の説明があり、加納理事が本日の探訪コースを専門家の立場から分かりやすく解説しました。午前10時に出発。雨上がりで空気も澄み、素晴らしい紅葉を見ながら坂道を踏みしめ御堂ケ池1号墳に到着しました。
古墳内に十数名が入り、その巨石ぶりに圧倒されました。そして君が代にうたわれたさざれ石山。出雲大社で見たことはありますが、これほど身近にあったとは驚きです。
眺望は素晴らしく松尾大社もよく見えました。好天なら大阪も見えるとのこと。
次に印空寺古墳。樹齢300年とも言われるタラヨウの大木です。「葉書き」の語源にもなったタラヨウの葉を見て平安郷内の山城古墳群へ到着。ここは広沢の池に面し紅葉も最高の別天地でした(集合写真)。
午後は広沢古墳群と佛教大学宗教文化ミュージアム、そて大覚寺古墳群へ。ここでも古墳内の巨石、石組に感心しました。
最終地点は大覚寺名古曽の滝です。境内の大沢の池は嵯峨天皇が竜頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべて詩歌や管弦の宴を繰り広げ、観月、観桜など四季折々の風物を楽しまれた池です。名古曽の滝は藤原公任や西行が和歌に詠んだ場所でもあります。
最後に大前理事長、加納理事の挨拶で散会となりました。
庶民が墓を持てたのは江戸時代になってからと言いますが、今から約千五百年前の古墳時代(弥生時代と飛鳥時代の間)後期の高度の技術と創意、工作物のスケール、すべてに驚きです。
参加者は歴史好きな方が多く、丁寧な質疑で熱心にメモを取られる方もいました。またこの地に大きな足跡を残した秦氏の高い地位や権力がよく理解されたと思います。
ぶらり探訪企画は来年も参加したいとの有り難い声も頂き、嬉しい限りでした。
(中村吉男)
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乙訓古墳群を訪ねウォーキング
「ぶらり探訪」企画 約30人が参加
11月23日、当NPO主催のウォーキング企画「ぶらり探訪」シリーズの第12回「乙訓古墳群を訪ねて」が長岡京市観光協会の後援を得て開催され、約30人が参加しました。今回訪ねたのは、長岡京市内にある恵解山古墳(いげのやまこふん)をはじめとする4つの「乙訓古墳群」。古墳時代(3世紀~7世紀)の首長の古墳群で、今年3月にはこの地域に散在する11基の古墳が「国指定史跡・乙訓古墳群」に指定されたところです。
この日、おりしも前方後円墳「井ノ内車塚古墳」(6世紀前半築造)で発掘作業が行われている最中でした。後日、同古墳から横穴式石室が出土したとの発表もあります。
参加者は、当NPO理事でもある京都市埋蔵文化財研究所の加納敬二さんの案内と解説で約17キロにわたる探索コースを歩き、いにしえの歴史のロマンを堪能することができました。昼食タイムに使わせてもらった長岡天神境内の紅葉も鮮やかでした。
なお、集合場所のJR長岡京駅前には中小路健吾市長もかけつけ、歓迎のご挨拶をいただきました。有り難うございました。
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