-1- 嵯峨野の偉人「勤皇女傑」、村岡局
「直指庵」再興
嵯峨野北ノ段町にある直指庵。今は熱心な観光客も訪れる嵯峨野の有名なスポットになっています。今から約380年前の正保3(1646)年に、隠元禅師の高弟・独照禅師がこの地で草庵を結びました。その後、隆盛し大寺になり、弟子・月譚が跡を引継ぎますが、その後跡継ぎが無く独照の墓堂があるだけとなりました。幕末になり、無住の寺・直指庵を再興した人が村岡局です。
「近衛家の清少納言」村岡局
村岡局は天明6(1786)年、北嵯峨の大覚寺門跡家臣の津崎左京の家に生まれ、矩子と名付けられました。寛政10(1798)年、13歳で左大臣・近衛忠熈に侍女として仕えます。後に侍女筆頭の老女の地位に就き、津崎村岡局と名乗りました。また勤皇活動に熱心で薩摩藩士・西郷隆盛、清水寺の僧・月照、梅田雲浜などの勤王家と盛んに交流し、聡明で「近衛家の清少納言」といわれました。薩摩藩、島津斉彬の養女・篤姫(後の天璋院)が近衛忠熙の養女として江戸幕府13代将軍徳川家定との婚儀のおり、既に亡くなっていた(近衛忠熙の)正室・郁姫に代わり養母役を務め江戸に下りました。江戸では、尊王攘夷派の志士、近衛家、公卿との間の連絡に当たり、月照、西郷隆盛らとも親しくし、「安政の大獄」の際、2人を西国に逃がしたともいわれています。
「安政の大獄」
嘉永6(1853)年、アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが黒船4隻率いて浦賀にやってきました。世界史的な波が本格的に江戸幕府・日本に打ち寄せ、日本の政治的な大変動が起こりました。彼女が72歳の時(安政5~6年)、江戸幕府は、尊王攘夷派の公卿(三条家・近衛家・有栖川家など)、一橋派の大名(水戸藩・土佐藩・尾張藩など)、志士(活動家)等、連座した100人以上を幕府の諸策≪孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するなど≫に反対するものとして弾圧しました。「安政の大獄」です。彼女は縁戚に当たる水戸の鵜飼吉左衛門(大獄で死罪)を通して、水戸藩と近衛家のパイプ役となりました。彼女が近衛家代表として立ち回っていたのでしょう。それゆえ大獄の処罰対象となった近衛家の人間は彼女一人でした。京都西町奉行所の取調べを受けた後、江戸町奉行所に投獄されます。村岡は当時72歳の老女です。しかし、彼女は厳しい訊問を受けながら、「自分は近衛家の取り次ぎに過ぎず、計画や工作の内容は知らない」と、あくまでシラを切り通しました。まさしく「勤皇女傑」です。幕府側としても、彼女がそこまで危険思想を持っているとは考えていなかったでしょう。最終的に、30日の押込の刑を受けます。自宅軟禁のような処置ですが、彼女の場合はかなり寛大な扱いです。そして天璋院(篤姫)の親代わりだったことから、その援助により釈放されました。その後一度帰京しました。77歳の文久3(1863)年にも、尊王攘夷運動の活発化に伴い嫌疑を受け、幕府に捕えられています、がその後放免されました。
明治維新後「嵯峨の慈母」
明治維新後、郷里である北嵯峨に戻り、墓堂だけであった無住の寺を兄の孫・寿仙尼とともに「直指庵」浄土宗寺院として再興しました。西郷隆盛ら志士たちもこの寺を訪れたといいます。ここで余生を過ごし付近の子女の教育に努め、晩年は「嵯峨の慈母」と称されました。太政官より終身米を下賜され、安政の大獄の殉死者らの冥福を祈っています。明治6(1873))年に88歳で世を去りました。かなりの長寿でした。没後、従四位を追贈されています。村岡局は、幕末の歴史をつくった志士たちの影の立役者で、西郷隆盛や篤姫から信頼された女性で地元嵯峨野の偉人です。
亀山公園に銅像があります。また直指庵の本堂北、竹林の中に局の墓があり、嵯峨大沢池畔に顕彰碑が立っています。
彼女は、直指庵で 「雨あられ 激しく降れど軒深き わが家はそれと 聞えざりけり」 「すなおなる 竹のはやしを朝夕に み都るこころの なとゆかむらん」と詠んでいます。
*参考資料:「京都風向」、Wikipedia、「武将ジャパン」など
「さ・らん第15号」より(運営委員 河合康博)
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-2- 嵯峨天皇から私達への贈り物 ー文化と史料ー
御代が替わった今年、令和元年。今上天皇で第126代。 日本は世界で一番永く断絶すること無く続いている国です。
『日本書紀』によると、初代神武天皇は紀元前660年2月11日 (建国記念日・紀元節)に奈良の橿原で即位され、建国され たとしています〈弥生時代〉。その後、古墳、飛鳥・奈良時代、 平安時代さらに現在へと万世一系で連綿と続きます。
それ ぞれの天皇の御代にはいろいろな出来事がありましたが、 我が嵯峨野に関して最も重要な天皇は、第52代嵯峨天皇 (786 ~ 842)です。平安時代初期、今から約1200年前です。
嵯峨天皇は、平安京に遷都された桓武天皇の第二皇子。 第一皇子の平城上皇との間に薬 くすこ 子の変などがありましたが、 最終的には嵯峨天皇側が勝利しました。もし、勝利していな ければ都は元の平城京に戻っていました。
【文化・建造物の贈り物】
大覚寺、清凉寺、梅宮大社、天龍寺に繋がる 壇林寺など
嵯峨天皇は、聡明で読書を好み君主としての器量を持ち、 父の桓武天皇に愛された、とされています。平穏な治世の ため官僚に政務を任せ、詩演を精力的に開催し文化的事業 に専念しました。この地に嵯峨離宮(嵯峨院・後の大覚寺) を建てたのは、隠遁思想に傾倒してのことと思われます。 源 融(みなもとのとおる)の山荘である棲 霞観( せいかかん)(棲霞寺)は、嵯峨天皇仙洞の嵯 峨院の一部として賜ったもので、そののち嵯峨釈迦堂とし ても知られる清凉寺となりました。
また、嵯峨天皇は三筆の一人(他に空海、橘逸勢)です。 平安時代初期は遣唐使により当時唐で流行していた王羲之 たちの書法や唐人の書跡などが伝えられました。三筆は唐 風を日本化しようとする気魄ある書を遺しました。
嵯峨天皇の皇后で類なき麗人であった橘嘉 智子(たちばなかちこ)(壇 林(だんりん)皇 后)の檀林寺は、京都で最初に禅を講じた寺でした。皇后 の没後急速に衰え平安中期に廃絶しましたが、鎌倉時代に 後嵯峨上皇が亀山殿(嵯峨殿)を造営し、室町時代にその 跡地に足利尊氏が天龍寺を創立します。また梅津では壇林 皇后が橘氏一門の氏神として、綴喜郡井手町から梅宮大社 を遷座され外戚の氏神として扱われました。
嵯峨天皇の皇女有智子(うちこ)内親王は、かな文字もまだ誕生し ていない平安時代前期に、女性が漢文を操って男性に伍し たという“才媛”で、小倉山東麓辺りに嵯峨西荘がありま した。落柿舎のすぐ西にある陵墓のうえに小祠があり、姫 明神と称されていました。その辺りの町名は現在「嵯峨小 倉山緋明神町」です。
【歴史史料の贈り物】『新 撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』
奈良時代、各氏族は天皇の祖先との関係の深さに応じて 社会的地位を与えられたので、系図を詐称する者が多く、 桓武天皇はこれを正そうとされたが果たせなかったので、 遺志を継いで嵯峨天皇が『新撰姓氏録』を編纂。
都と畿内 に住む1182氏姓を記録し、その出自により「皇別」・「神別」・ 「諸蕃」に3分類されています。これは、日本古代史全般の 研究に欠かせない貴重な史料となっています。
「皇別」は、神武天皇以降天皇家から分かれた氏族で、 平氏、源氏、橘氏、阿部氏、高階氏、清原氏など335氏。
「神別」は、神武天皇以前の神代に別れた氏族で、中臣 氏(藤原氏)、物部氏、弓削氏、安曇氏など406氏。この内、 特に中臣氏と物部氏は伊勢神宮と並び三大神宮と呼ばれる 鹿島神宮・香取神宮(いずれも東国の千葉・茨城)に関係 が深い。神武天皇以前の神代からの氏族が豊かな東国(東 日本は縄文時代から豊かで人口が多かった)で活躍したで あろうことから、天孫降臨の高天原は関東(日高見国)にあっ たという説が唱えられています。
「諸蕃」は、帰化人系の氏族で、秦氏、大蔵氏、高麗氏、 百済氏、新羅氏、漢氏など326氏。特に秦氏は、アジア大 陸から朝鮮半島を経て渡来してきた帰化人で、少なくとも 3 ~ 4世紀まで遡り、ちょうど大和朝廷が成立した頃と重な ります。『新撰姓氏録』によれば、秦始皇帝の後裔である功 満王が仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王(弓月君) が、応神天皇14(283)年に来朝したと記載されています。
「さ・らん14号」より (運営委員 河合康博)
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